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今でも若者のカリスマ的存在として根強い人気を誇るジェームス・ディーン。今月はそのジェームス・ディーンの特集ですよっd(゜ο゜)彼の短くもドラマチックな人生を皆さんもこの特集で味わってくださいね♪



 1931年2月8日AM2:00。インディアナ州の小さな病院で産声を上げた元気な男の子の赤ちゃん。それがジェームズ・ディーン(愛称 ジミー・ディーン)本名はジェームズ・バイロン・ディーンでした。父、ウインストン・ディーン。母、ミルドレッド・ディーン。父は厳格なクエカー教徒でそんな家庭の一人息子としてジミーは産まれたのでありました。彼のミドルネームのバイロンは彼の母が好きだった詩人バイロンからとった名なんですよ♪

 一人息子として大事に育てられ、その幸せが永遠に続くはずでしたが、、、ジミーが8歳の時に母親が卵巣ガンで遠い世界に旅立ってしまいます。彼女はまだ29歳という若さでした。。。

当時、父親は、ロサンゼルスの退役軍人病院に勤める歯科技工士で忙しかったために、フェアモンド農場を経営する姉夫婦にジミーを育ててもらうことを頼むのです。8歳の少年が母親を亡くすことは相当のショックだったでしょうが、フェアモンド農場でのジミーは明るく、小学校では絵画やピアノ、ドラムの練習に打ち込んだそうです。でもやっぱり後々まで、母の死はジミーに影を残すことになります。愛される事を求めた幼年時代は、笑顔の下でふつふつと鬱積していきます。


 養父母は籍こそは入れなかったものの、ジミーをとても愛して育てました。そんな生活の中、ジミーも中学校に入学します。そこで担任の先生だったアデリーン・ノールに俳優の芽を見出されてなんと学生演劇の主演に大抜擢されちゃうんです(=^0^=)v

そんな訳で、中学生にしてジミーは演劇に目覚めたのでありましたぁ♪そして高校に入学、演劇研究会に入りますが、5フィート10インチ、155ポンドの小柄な体型でありましたが、とても運動神経が良くバスケットにも熱をあげました。なんと、キャプテンまで勤めたんですよっ( ̄― ̄)ゞ 

しかぁ〜も在学中には前歯を二本折り、眼鏡を15本も壊したそうです(゜o゜;;ジミーは眼鏡をしてたんですよ〜 びっくりでしょ!

1949年には州政府主催のスピーチコンテストに出場して迫真のスピーチで優勝します\(^_^)/州対抗のコンテストでも見事6位入賞を果たします。少しずつジミーの才能が公になってきたって感じでしょ?(笑)

 


 ここまで読むと・・・「あれ?ジミーって秀才タイプだったの?」「ちょっと思ってたジミーのイメージと違うっ」なんて声が聞こえてきそうですが、ご心配なく。。。ちゃぁ〜んとイメージ通りのジミーも存在しますよ♪ジミーがスピードに目覚めたのは16歳のとき、養父母にプレゼントしてもらったチェコ製の1.5馬力、最高時速80km/hの小型バイクに熱狂します。爆音をたてながら街中を走るジミーは周りの人々を驚かせて、「ワン・スピード・ディーン」なんてあだ名をつけられちゃったんです。

 16歳でバイク好きになったジミーはそのあと数台のバイクを乗り継ぐんですよ。ハーレー、ノートン、インディアン500、イタリア製のランチア、イギリス製のトライアンフなんてのがジミーの愛車になりました。バイク好きの人には涙が出るほどの名車ぞろいですよね!b(^−^)

 さて、そうこうしているうちに高校も卒業となり、新しい生活を始めることになります。実の両親のように愛情をかけてくれた養父母の元から離れ、すでに再婚していた実の父が暮らすロサンゼルスで暮らすようになります。高校を卒業してブラブラしているわけにもいかないので、父に勧められたサンタ・モニカ・ジュニア・カレッジ法学部に入学するんですねぇ〜 ジミーが法学部なんてちょっと意外じゃないですか?スーツに身を包んだ弁護士のジミーなんてちょっと想像できないですよねぇ?

 まぁ大学に入学したものの、成績はイマイチ(^−^;;必修の授業はとりあえずこなしますが、演劇関係の授業を受け、クラブ活動として演劇クラブ、ジャズクラブ、バスケットボールクラブで活躍するのでした。勉強ができなくっても才能があればいいじゃないかぁぁぁ(>。<)て応援してあげたくなりますよね(笑)

 学生生活はとても有意義なものでしたが、家庭での生活はそうでもありませんでした。幼い頃に失った母の面影に義理の母はあまりにも遠かったんです。そんな義理の母にもどうしても馴染めず、その義理の母を愛す父にもこれまた馴染めずに寂しい思いをしてました。

 

 そんな家庭で、寂しく切ない思いをしているとき、ジミーはUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に活発な演劇活動のあることを知り、19歳で転入学をします。そしてUCLAの演技科を専攻するのでしたぁ〜\(*´∇`*)/

 そこで自分の経験を役に投影する自然でリアルな演技テクニック「メソッド」を教えていたことこで有名なアクターズ・スタジオ出身の俳優ジェームズ・ホイットモアのもとで演技の勉強に励みます。アクターズ・スタジオ出身の俳優さんは、ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、スティーブ・マックィーン。女優ではマリリン・モンローと有名どころがズラッと卒業している有名な学校なんですよぅ〜

舞台にもあがり「マクべス」でマルカム役を演じその演技が評価され、エージェントと契約します。50年には典型的なアメリカン・ボーイのイメージを買われてペプシコーラのコマーシャルに出演するものの、俳優としての仕事はなかなかジミーには入ってきませんでした。

 今も昔もそうですが、売れない役者というものはお金持ちではありません(T_T)ジミーもその一人でして、学生クラブが運営する低価格な寮で生活してましたが、それでも生活のためにアルバイトをせざるおえない状況だったそうです。ジミーも映写技師助手をしたりと、さまざまなバイトをしたんですよ! また、大学の授業をさぼってハリウッドで映画やテレビのオークションに参加したりもしてたそうです。


 大学生にはなってみたものの、毎日、授業をさぼったりしていたジミーの前に一人の男が現れます。彼の名はロジャーズ・ブラケット。ロジャーは広告代理店の重役さんで、ジミーの典型的なアメリカンボーイのイメージに魅力を感じてしまったファン第一号なのであります(m~o~)m ロジャーの熱の入れ方といえば、そりゃ日本のアイドル親衛隊長も真っ青なぐらいのもんでして、学生寮で貧乏な暮らしをしていたジミーを誘って自宅で暮らさせたり、ロサンゼルスで生放送されるラジオドラマの端役を紹介したり、ホームパーマのCMの仕事をとってきたりと最終的にはファンにはとどまらずマネージャーのようなことまでしてたんだそうです♪

 さらに、ジミーのTV初出演となる仕事も見つけてきましたV(^∇^) 「Hill Number One」というドラマの洗礼者ヨハネの役というチョイ役だったんですけどね(^−^;;

 

 最初は、ほとんど人の目にとまらなかったジミーの俳優としての仕事ですが21歳になりジミーの演劇への情熱と才能が着実に実を結びだしてきたんです( ̄― ̄)ゞ 映画の初出演もこの頃、朝鮮戦争を題材にした「Fixed Bayonets」で埋まってる地雷を探す兵隊さんの役をこなします。まっ、こなすと言っても、これまた台詞はなかったんですけどね(笑)

 しかぁ〜し、1952年にはやっと役らしい役がもらえます♪題名は【底抜け艦隊】といいまして、ボクシングの対戦相手のセコンド役、その次の【Has Anybody Seen My Girl ?】という映画ではソーダ売りの青年の役をもらいます。映画出演を果たして自信がついたジミーは、あっさりとUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス分校)を中退してしまいます(´ ▽`) 

 そして憧れだったニューヨークのアクターズスタジオに入門テストを受けて見事合格\(*^^*)/創設者のリー・ストラスバーグ本人からじきじきに「メソッド演技」を学ぶのでありました。演技を勉強しながらも生活のために仕事を探し、数々のエージェントを回りますが、職もみつからず苦労しちゃったジミーなのでありました。23歳になり仕事もなく毎日スクールに通うジミーに嬉しい知らせが舞い込みます♪なんとブロードウェイの新作舞台「ジャガーを見よ」の主役で知能の足りない青年役に大抜擢されます。

 が、なっなんと、その脚本がとてつもなく評判が悪く、たった5日で公演打ち切りになってしまうのです・・・可哀想なジミー(>。<)でも大丈夫♪そんな短い公演期間でも新人のジミーの演技力は、演劇評論家達の話題の的になるのでありました(O^^O)♪その後、映画よりも舞台での経験を優先し、映画出演の要望があっても断ってしまいます。1954年にはブロードウェイの舞台【背徳者】でアラブの青年役を演じて絶賛を浴びちゃいます♪そして同じ年にデービッド・ブラム賞(最優秀新人賞)を受けるのでありましたぁ〜 思えば俳優を目指してから苦労の連続だったジミーもやっとスポットライトがあたったのでありました。

 

 ジミーの演技はいろいろな演劇家たちに絶賛されましたが、その中にアクターズ・スタジオの創設者の一人であるエリア・カザン監督がいまいした。エリア・カザン監督は、ジミーの演技に感動しちゃい、新作映画、そう!かの有名な【エデンの東】の主役に抜擢するのでありましたぁぁ

 できのいい兄ちゃんと比較されて、父親にひどい扱いをうけながらも父親の愛を求めるナイーブな青年のキャルを演じ、上目使いで、すねた青年の演技は、当時の若者達のハートをがっぶりキャッチしてしまうのでありましたぁ〜 そして、この映画でジェームス・ディーンの名を世界へと広く知らしめることになるのでした(*’‐’*)

 そして、ご存知の通り主演第2作目は【理由なき反抗】ですよねぇ〜 両親の仲が悪く、家庭崩壊寸前の中で孤独に落ちていき、非行に走る17歳の少年のジミーを演じましたよねぇ 有名なシーンは崖に向かって車を走らせ、度胸試しをする所じゃないかな?当時の人々にも強烈な印象を与えたに違いありません。それとジミーのユニフォームのように思われている白いTシャツにジーンズ、赤いブルゾン姿は、この映画で見ることができます(^―゜)b

 当時の若者はこぞって、このスタイルを真似したそうですよ 今も昔もカッコいいスターの真似をしたい気持ちは変わらないですね(笑)日本だけじゃなくてアメリカも同じなんですね!

 

 映画の役だけではなく、実生活でも母親を早くに亡くしたジミーは愛に飢えているにもかかわらず、ちょっと破滅的なところがあったそうです。「エデンの東」で知りあったイタリアの女優のピア・アンジェリと知り合い、愛し合うようになりますが、ピアの母親が無作法なジミーを嫌い、交際に反対するのでした(T_T)

 交際は4ヶ月続きますが、母親の反対に逆らえないピアはジミーへの想いを断ち切り流行歌手ヴィック・デイマンと結婚してしまいます。その心の傷からジミーのスピード狂に拍車がかかったのではないか?と言われているんです。

 その後も、テレビ・ ショーの司会者マイラ・ヌルミ、『理由〜』の共演女優ナタリー・ウッド、『007/ドクター・ノオ』のグラマー女優ウルスラ・アンドレスらと浮名を流しますが、どれも長続きしませんでした。愛され方を知らなかったジミーは愛し方も上手に出来なかったのかもしれませんね。

 

 理由なき反抗の撮影が終わると、次には【ジャイアンツ】の撮影が待っていました。が、なんとこの映画、競演のエリザベス・テーラーが妊娠してしまって撮影が延期するというハプニングで始まったんです(^^;;しかもこの映画は、監督のジョージ・スティーブンスに自ら頼み込んでもらった役でありまして、惚れこんでいた役どころだけに監督との衝突も多かったそうです。しかし、やはりそこは才能のあるジミーですからテキサスの牧場主夫人(エリザベス・テーラー)に淡い思いを寄せる牧童ジェットを完璧にこなしました。撮影の合間には愛車のポルシェ・スピードスターを 自ら運転して、何度かレースにも出場していましたが、その行動が映画会社の重役やスタッフ達の心配の種になっていたので、ジャイアンツの契約で撮影期間中はカーレースには出場しないという約束をさせられたんです(^^;;でも危険なのはカーレースだけではなかったのです。。。

 

 その時は突然にやってきました。ジャイアンツの撮影期間はカーレースに出れなくなってしまったため、ジミーは1955年9月21日に愛車ポルシェ・スピードスターを下取りにだし、その代わりに銀色の新型車ポルシェ・スパイダー550を購入します。

 そして・・・1955年9月30日金曜日、午後3時半頃に前日に点検を終えたばかりの愛車ポルシェ・スパイダーに整備担当のメカニックのロルフを助手席に乗せ、ルート99を走っていたジミーは、なんとスピード違反で警察官に停められ16キロオーバーで違反切符を切られてしまいます。ジミーの性格からその時点で反省や自粛は考えることなどできず、さらにそのままの速度でルート446を走ります。途中、ロルフと二人で交差点にあるレストラン【ブラックウェルズ・コーナー】で休憩をするもののサリナスのレース場に向かって、さらにルート466を西の方向へスピードを落とすことなく向かっていくのです。

 事故現場となるのはルート466とルート41のY字分岐点。午後5時45分、ジミーと反対方向からこの分岐点にさしかかった学生ドナルド・ターナップシードは大型セダンを運転し左前方へ左折してルート41に入ろうとし、対向車線から直進してくるジミーのポルシェと激突するのです。。。アメリカは右側通行なので、左折する際、対向車線を横切るために、ジミーに通行の優先権がありました。たぶんジミーは優先権のある自分の車が見えてるだろうから、相手が停まるに違いないと判断して減速はしなかったそうです。

 一方、ターナップシードは、車体も低く地を這うようなポルシェ・スパイダーは道路の陰に入って見えにくく、ターナップシードがジミーの車に気づいたときは時すでに遅しだったそうです。23歳のターナップシードはかすり傷程度、27歳のロルフは車体から投げ出され骨折、ジミーはあごと両腕を複雑骨折し、内臓もかなり損傷、衝突のはずみで首を骨折し救急車で運ばれましたが、すでに即死に近い状態だったと言われています。

この事故について後に裁判がありましたが、判決はジミーのスピードの出しすきが原因だという判決が下されました。しかしその後、事故当時のポルシェのスピードは制限速度70Km/hに対して140Km/h出ていたとする法廷での証言について、事故分析協会は同じ日の同じ時間、同じ場所で、同じ条件をつくり事故の再現実験を試み、ジミーが当時出していたスピードは約90km/hで、それほどの高速ではなかったのではないかと報告したとも言われています。

 この事故でジミーは短い人生に幕を閉じたのでありました。

 

 50年代の若者のカリスマはこうして伝説になってしまいました。ここからって時に散り去ってしまったからこそ伝説になったのかもしれません・・・

 たった3本の主演映画を残しただけのジェームズ・ディーンは突然の事故で命を落とすのと引き換えに、青春をおくる若者の象徴としての地位を手に入れたのかもしれません。ジミーの親友で「理由なき反抗」で競演したサル・ミネオはこう言いました。

「これまでには社会には大人と子供しかいなかった。10代とは大人になるためのあわただしい過渡期に過ぎない、と見られていた。それがジミーのより初めて、10代という世代のあることが世に示された。ジミーこそファースト・アメリカン・ティーン・ネイジャーなのである。」と・・・・

ぜひ、ジミーが一番輝いて、熱く生きていた証を感じてみてください。きっと今までわからなかったジミーの新しい魅力を発見できると思いますよ♪ご精読ありがとうございましたぁ♪"( ^ - ^ )ノ~~マタネー☆'.・.・:★'.・.・:

 

 
 
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